住民投票は民主主義を破壊する?

 埼玉県所沢市で、学校にエアコンを設置すべきかを問う住民投票が行われた。エアコンで住民投票なんていくらなんでもそれはないだろうと思ったが、近年、なんでもかんでも住民投票にかけようという風潮には、違和感を感じる。人類は長い歴史の中で、民主主義的システムを繰り返し試行してきたが、直接民主主義の典型である住民投票は「衆愚政治に陥りやすい」というのが、人類が幾多の失敗の中で獲得してきた知恵だからだ。一方、今月22日には、日本最西端の領土である与那国島で陸上自衛隊「沿岸監視隊」配備の賛否を問う住民投票が行われる。部隊を置くのは、中国の軍事的脅威が史上かつてないほど高まっていて、そこから日本を守るためだ。しかし、この住民投票の投票資格は、中学生、永住外国人にも与えられているという。そこに、非常に胡散臭いものを感じる。ここでは参考までに、そもそも住民投票とはいかなるものであるかを考察した『明日への選択』の論文を掲載する。

 


 

住民投票という「劇薬」にどう対処するか
 

『明日への選択』平成20年6月号掲載論文

 

 大阪府の橋下徹知事が就任直前の一月末、住民投票のあり方に疑問を呈したことは未だ記憶に新しい。米軍機の岩国基地への移転をめぐり、岩国市が一昨年に住民投票で反対の意思を示したことについて、「国の防衛政策に地方自治体が異議をさしはさむべきでない」と批判したのである。それに対して、前岩国市長の井原勝介氏が「民意に基づき国にモノを申している」と反論したことで、両氏の間で住民投票をめぐるバトルが交わされた。当時の新聞報道によると、「憲法が間接代表制をとっている以上、直接民主制の住民投票の対象も絞られるべきだ」「何でもかんでも住民投票をやると、多数の意見だけに従って政治を動かさなければならなくなる」などと橋下知事は力説したとされる。

 記者は橋下氏の政治的言動の全てに賛同するつもりはないが、住民投票に対する氏の指摘には注目すべきものがあると考える。なぜなら、平成八年に新潟県巻町で原子力発電所の建設を問う住民投票が行われて以来、住民投票は次々に各地に広がったが、原発や基地など国の基本政策に関わるテーマが少なくないからだ。また、住民投票を推進する論者の中には、議会制民主主義を軽視するような言動が目に付くのも気になるところだ。

 一方、こうした動きとの関連で見過ごせないのは、「市民参加」とか「市民が主役」といった掛け声の下、各地の自治体に広がる自治基本条例の動きだ。多くの条例が住民投票の規定を設け、請求や投票の権利を未成年や永住外国人にまで広げたり、「常設型」の住民投票制度を設ける自治体も着実に増えている。しかし、このような制度の導入は、国の安全やエネルギー政策に関わる事項が住民投票の争点とされる現状を踏まえれば、国の土台を揺るがす「蟻の一穴」にならないとも限らない。

 この意味で、橋下知事の発言は、住民投票のあり方を考えるための時宜を得た問題提起だったと言える。しかし、記者が調べた限りでは、残念ながらそれを契機に議論が深められた気配はない。

 そこで、改めて住民投票が抱える問題を整理するとともに、住民投票のあり方についていくつかのポイントを指摘したい。

 

◆間接民主主義を破壊する危険性

 これまで全国各地で多くの住民投票が行なわれてきたが、その大部分は「市町村合併」の是非を問うものである。それ以外の住民投票は、「原発・基地・産廃」などのいわゆる左翼が言う「迷惑施設」に関するものと、「ダム・空港・サッカースタジアム」などの大型の公共事業に関するものとに分けられる。

 住民投票を行うには、まず各自治体で住民投票条例を制定することが必要となるが、これには首長又は議会による提案の他、有権者による直接請求の方法がある。いずれの場合も議会の議決が前提となることは言うまでもない。「市町村合併」の住民投票には、合併特例法の失効が迫るなか、首長が結論を引き出す手段として提案したものが多い。それ以外の住民投票にも、首長や議員の提案によるものはあるが、有権者の直接請求によるものが多数を占める。

 なお、先に触れた常設型の住民投票制度の多くは、首長や住民(一定数以上の署名が条件)が議会をバイパスして住民投票を発議できる仕組みとなっている。

 ところで、「市町村合併」以外の住民投票について言えば、その背景には当然各地に特有の事情もあるが、大なり小なり共通しているのは、説明責任を十分果たさない首長や、それをチェックしきれない議会に対する不満である。換言すると、間接民主主義の「機能不全」に対する「不満の爆発」として住民投票は広がっているとも言える。

 今日、多くの地方議会は「総与党化」現象を背景に、首長が提案した議案の単なる「追認機関」などとも揶揄されている。そうした政治の現状を踏まえれば、直接請求による住民投票が各地に広がりつつあるのも決して不思議なことではない。

 だが、その一方で、直接民主主義の典型的な手段である住民投票については従来、さまざまな疑念や難点が指摘されてきたのも事実である。その最も本質的な問題は、憲法や地方自治法が定める間接民主主義との矛盾だと言える。

 周知のように憲法は、地方自治体に執行機関としての首長と議決機関としての議会をおき、長と議員は住民が選挙で選出すると定めている。これを受けて地方自治法は、首長と議会が住民を代表し、それぞれの責任と判断で行政を営む間接民主主義を定めているからだ。

 もっとも、わが国は間接民主主義を基本としつつも、それを補完するために直接請求などの直接民主主義的な制度も採用しており、だからこそ住民投票も実際に行われている。しかし、重要なのは、現行法体制の下で認められる住民投票には、自ずと一定の制約があるということだ。

 この点について、行政法の専門家である原田尚彦氏はこう説いている。「現行法の建前上、法律論として無条件に住民投票が妥当といえるかは疑わしい。個別重要課題をアド・ホックに住民投票に委ねて決定するのは、長や議会の権限と責任体制を侵害し制度の基本を揺るがせにするおそれがあるからである」と(『新版・地方自治の法としくみ』)。

 実際、こうした問題が認識されていればこそ、住民投票条例には通常、「市長及び議会は、住民投票の結果を尊重しなければならない」といった文言が置かれ、法的拘束力のない「諮問型」となっている。

 とはいえ、諮問型の住民投票であっても、事実上の拘束力をもつことは否定できない。有権者の支持によって選出されている長や議会が、住民投票によって示された「民意」を無視するのはきわめて困難だからである。とすれば、諮問型の住民投票であっても、事実上、長や議会の権限を侵し、結果的に間接民主主義を揺るがす恐れは否定できないと言うべきだろう。法文に「尊重する」と書けば違法の疑いが払拭できるとする解釈は、「形式的にすぎ、妥当でない」と原田氏は指摘している。

 この問題に関連して注意すべきは、発議権を首長に与えるタイプの住民投票が持つ危険である。駒沢大学の大山礼子教授はこう述べる。

 「議会の機能不全を口実に、執行権の長が議会を迂回したかたちで住民投票を選択するのであれば、たとえその選択に住民の共感と賛同が得られる場合であっても、議会権限の侵害との批判を免れないはずだ。このような住民投票の導入は、行政に対する議会の地位低下に一層拍車をかける危険性が高く、結局はデモクラシーそのものを危機に陥れることになるだろう」(『住民投票』)

 この種の住民投票が、「人民の意思」や「民意」の名による行政権の肥大化をもたらし、ついにヒトラーをはじめとする独裁者を誕生させたことは歴史の示すところでもある。

 ちなみに、常設型の住民投票制度の大半が、首長自らの判断で住民投票を発議できるタイプである。

 

◆「プロ市民」が住民を扇動する

 一方、住民投票制度は政治論としてもいくつかの難点を抱えている。最も本質的な問題は、大多数の住民は大所高所からの判断よりも、目先の利害やムードに流されやすいことだ。その結果、住民投票は衆愚政治に陥りやすいことが従来から指摘されてきた。事実、原田尚彦氏はオーストリアとスイスで実施された原発の当否にかかわる国民投票の実態調査を踏まえ、現地では「専門技術的な総合判断を要する特殊な政策問題を国民投票に委ねるのは不適切で無責任だ」とか「国民投票の結果は一部の扇動的報道や宣伝の仕方など偶発的要素に左右され、扇動家のおもうつぼ」だといった批判や反省の弁が多かったことを伝えている。

 日本でも「市町村合併」などの住民投票であればいざ知らず、原発や基地などの国の基本政策に関わる住民投票については特にそうした危険が否定できない。この種の問題では左翼運動家らが全国で反対運動を展開していることは周知の通りだ。一方、大多数の住民は、こうした高度な政治判断を要する施策を冷静かつ総合的に判断するための情報や見識を持ち合わせているわけではない。そうした判断力を身に付けようにも、多くの住民は時間的・精神的な余裕もない。当然、この種の住民投票は、議会で多数派を形成できない左翼勢力にとって、住民に偏った情報を流布し、自分たちの運動を進めるための絶好の好機となるわけだ。

 実は冒頭で触れた岩国市の住民投票は、ある意味でそうした例証とも言える。岩国の住民投票は、在日米軍再編に伴う厚木基地からの空母艦載機の移転受け入れの是非を問うものであったが、反対が八七%を占めて有権者数の半数をかろうじて超えた(投票率は五八・六八%)。その結果、社民党の福島瑞穂党首は当時、国会で鬼の首でも取ったかのようなはしゃぎようだった。

 ところが、である。この住民投票に対して、当の福島党首や辻本清美議員が現地入りしたり、全国から四百人の「外人部隊」がバスを連ねて乗り込み、事実上の反対運動を行っていたのである。また、「移転受け入れ=騒音被害の拡大」といった事実を歪めた一方的で偏った宣伝ばかりが目立ったことも地元の関係者によって明らかにされている。

 そもそも住民投票は公職選挙法の適用を受けないため、いかなる宣伝手法も許される。そうした事情も加わり、住民投票はテーマ次第では、プロ市民や扇動家らのやりたい放題の介入を招き、それによって結果が大きく左右されてしまう恐れがあることを認識すべきである。

 住民投票が抱える問題は以上に尽きるわけではない。その他、首長や議会の責任回避に利用されるとか、地域内の対立を激化したり、投票結果が僅差の場合、シコリを残すとか、地域エゴを生みやすい反面、少数者を抑圧する手段となる――等々、種々の難点が指摘されている。

 

◆再評価されるべき間接民主主義の意義

 こうした問題とは別に、住民投票を推進する論者の中には、間接民主主義の欠陥を強調する一方、直接民主主義を礼賛する者が少なくないことにも警戒を要する。例えば住民投票の積極的な推進論者である今井一氏は、「有権者の意思を政党や政治家が代表しきれるのかということは、間接民主制そのものに内在する問題」と指摘する一方で、こう説いている。「直接民主制こそが、民主主義の基本なのである。歴史的に見て、議会制とは、市民全員が集まって話し合うことが難しいという規模の問題などから、便宜的に導入された制度である。あくまで主権は市民の側にあるのであり、市民の代表者によって構成される議会は、市民が行使するはずの決定権を信託されているにすぎない」と(『住民投票』)。

 確かに、間接民主主義は不能率の代名詞のように言われてきたし、実際多くの欠点を抱えている。しかし、間接民主主義を単なる「便宜的」制度と見るのは間違いだ。というのも直接民主主義が危険な「劇薬」でもあることは、先にも触れた通り、直接民主主義による「民意」を背景に、独裁者たちが誕生した歴史的事実は示しているからだ。

 それ故、間接民主主義はある政治学者が指摘しているように、「人類が多くの失敗の歴史の後にようやく悟り得た比較的弊害の少ない制度」と言うべきなのである。

 間接民主主義の真価を一言で言えば、専門知に基づく議論と説得のプロセスにあると言える。政治学者の上田道明氏によれば、アメリカ政治にあってそれは「熟慮」という概念で示されてきたと言う。同氏の所論を記者なりに解説すれば、この「熟慮」という概念は建国以来、いわゆる「民意」を洗練させる過程として重視されており、間接民主主義を正当化する概念とされてきた。いわゆる建国の父祖らの手になる『ザ・フェデラリスト』にはその考え方の一端が、「人民の代表によって表明された公衆の声の方が…人民自身によって表明される場合よりもいっそう公共の善に合致することが期待される」というマディソンの言葉として示されている。現代アメリカの政治学者ダールも、デモクラシーはただの「生のままの意思」や「うわべの選好」に基づくものではなく、「熟慮」する中間過程――つまり「討議」を必要とするものであると説いていると言う(『自治を問う住民投票』)。

 要は、「熟慮」を経た結論こそが真に「民意」と称すべき価値があるということなのだ。「熟慮」なき単なる多数決は「民意」の名に値しない。それは下手をすれば、単なるデマゴーグに住民や国家の運命を託す自殺行為にもなりかねないのである。

 しかし、今日の社会で全ての有権者が参加できる「熟慮」のための「討議の場」を制度化することは難しい。有権者の意思を反映させる「討議の場」を設けようとすれば、それは住民の代表者が集まる議会以外にない。ここにこそ、今も変わらぬ間接民主主義の意義があるのである。

 その意味で、間接民主主義の形骸化が叫ばれる現在、本質的に求められるのは、議会本来の役割である「熟慮」のための「討議の場」を回復することであって、住民投票ではない。そのためにも、まずは間接民主主義の積極的な意義を再評価することが何より求められているのである。

 

◆いかに「劇薬」を取り扱うか

 一方、これまで明らかにしてきたように、直接民主主義の典型である住民投票は、使い方を誤れば間接民主主義の形骸化を促進し、破壊しかねない「劇薬」とも言える。

 しかし現在、すでに多くの自治体で住民投票が行われており、また自治基本条例等の中に、常設型の住民投票制度を盛り込む自治体が増えつつあるのも事実である。こうした動きを踏まえ、わが国の制度に適った住民投票のあり方について、いくつかのポイントを指摘しておきたい。

 先に指摘したように、住民投票は常に衆愚政治に堕する危険を孕んでいる。住民投票制度を考える場合、何よりこうした危険を回避するための工夫が施される必要がある。

 ここで注目したいのは、前出の上田氏の住民投票に対する考え方である。「熟慮」なき住民投票は、感情的な反応をカウントするだけのただの多数決に過ぎないかもしれないが、「熟慮」を経た住民投票はただの多数決以上のものになる可能性がある、と氏は言う。つまり、住民投票の意義は、住民が直接決定に参加できることだけではなく、その過程で住民が議論することにあると氏は言うのである。

 そうした観点から、氏は住民投票が「熟慮」のための討議の場となる条件として、まず住民に「正確な情報」が提供される必要を強調する。そのためには、何より行政が中立的な立場に立って、広報や討論会の主催など、「情報の提供役」を果たす必要があると氏は言う。

 また、住民発議の要件にも比較的高いハードルを設けるべきだと氏は言う。ハードルを下げれば住民投票の多用を招く恐れがあり、「熟慮」なき住民投票を誘発しかねないからだ。記者は上田氏の主張の全てを受け入れるつもりはないが、これらは傾聴に値する提案だと思われる。

 なお、住民発議の具体的な要件としては、地方自治法が議会の解散、議員や首長の解職請求を有権者の三分の一以上としていることを目安とすべきなのではあるまいか。

 とはいえ、「熟慮」を経た住民投票を実現するためには、手続的な条件だけで十分とは言えず、テーマの限定も不可欠であろう。つまり、住民投票で解決するにふさわしいテーマとその限界を見定めておくべきだ。例えば「それぞれの地域で完結する問題、その地域の住民投票で決着が図れるもの」(坂田期雄東洋大学名誉教授)という考え方は一つの基準となるのではなかろうか。逆に言えば、基地問題など国の安全保障に関わる施策については住民投票で取り上げるべきではない。こうした制約は、衆愚政治に陥る弊害を避けるためにも必要だと思われる。

 最後に投票権者の範囲である。最近は未成年者や永住外国人にまで投票権や発案権を認めている自治体が少なくないが、これは甚だ疑問である。基地や原発など国の基本政策に関わる事項が住民投票にかけられている現状を踏まえても、地方自治法に準拠して、「選挙権を有する日本国民たる住民」に限定すべきである。

 以上、住民投票が抱える問題とそのあり方について述べてきた。とりわけ地方議員などの関係者には、こうした問題を踏まえ、住民投票という「劇薬」をくれぐれも慎重に取り扱うべきことを訴えたい。(日本政策研究センター研究部長 小坂実)

〈『明日への選択』平成20年6月号〉