安保法制の整備は何のために行われるのか

日米共同統合演習(写真出典=防衛省)
 

 安全保障法制の整備に向けた与党合意が成立したが、相変わらずこれを「危険だ」と大騒ぎしたいマスコミの餌食になるばかりで、この法制整備がそもそも本来何をめざすのかが国民には一向に伝わってこない。これではまたまた「反対、反対」の大騒動に巻き込まれること必至、という他ない。

 これには当然、自衛隊派遣を「いつでも、どこまでも」などと、あえてねじ曲げて報ずるマスコミのあり方が問題となろう。しかし、それとともに、関係者の「プレゼン」のあり方にも問題があるのではなかろうか。なぜかかる法制整備が必要なのか、めざそうとする法制整備は、要はどのような内容なのか、そしてそれを国民はどう受け止めるべきなのか……等々、国民の側からすれば全く知らされることがないからだ。

 その意味で、筆者が今、とりわけ必要だと考えるのが、この法制整備の理由付けの問題と、やろうとしていることの実態に関わるキチンとした説明だ。これは昨年の集団的自衛権解釈の見直しに関わる閣議決定の際もそうだったが、あの程度の限定的な目的の行使容認が、あたかも無限定かつ全面的な見直しでもあるかのようにねじ曲げて報じられ、それが国民世論の深刻な動揺を引き起こした、という苦い教訓があるからだ。

 そう考えれば、まず関係者は、日本を取り巻く国際情勢の現状から説明を始める必要があるのではないか。今このアジアでは、中国の異常な台頭の一方、米国のパワーの低下があり、この米国の低下した分を、各国の力で補う必要が出ている、という現実だ。つまり、米国と各国が一緒になって多国籍による抑止を効かせるという必要だ。それによりこの地域への米国の積極的関与の姿勢を再構築し、中国に対するより強力な抑止網を形づくっていく。それが集団的自衛権の行使を認めた目的でもあり、他国の戦闘への「後方支援」をより広く認めることとなった今回の法制整備の意味でもあるのだ、と。

 むろんこれには、そうはいっても自衛隊の活動が際限なく広がるのは、やはり問題ではないか、との疑念の声が出てこよう。これでは自衛隊が他国の戦闘に巻き込まれる危険性も確実に増えるからだ。しかしこれには、いかに積極的とはいえ、そこには自ずと限度もある、と明確に説明する必要があるのではないか。それはあくまでも「我が国の平和と安全」のために活動する米軍や豪軍、あるいは「国際社会の平和と安全」のために活動する多国籍軍等に対象を限った、それも輸送協力等の「後方支援」であり、その戦闘に直接参加するものではないこと、一方、集団的自衛権行使の場合も、これには他国ではあり得ないような「厳重な縛り」がかけられており、実際に行使されるような場合はまずないであろうこと――等々だ。要はそのような姿勢を見せることにより、逆にそのような事態を起こさせないための「抑止効果」をもたせること、それが目的でもあるからだ。

 もちろん、だからといって「ただ安全」とだけいっていれば済むというのでもない。日本が国際社会の一員として生きていくためには、ただ自国民だけ安全でいればいいという話は今後は恐らく通じないし、世界もそうした日本のエゴを認めないだろう。その意味では、日本国民もまた覚悟を求められているといえるし、そろそろそうした可能性に眼を向けた論議を始めるべきだとはいえる。しかし、だからといって、現にある「限定」を指摘しないというのも問題であろう。日本もまた「普通の国」になるべきとはいえ、そのためには一足飛びに屋上を目指せといわれても、それは無理という他ないからだ。

 その意味で、今回の合意の意味は大いに評価すべきだが、これを過大視しすぎるのも問題といえる。新聞は今回の決定を「根底から転換」などと大騒ぎするが、実はきわめて常識的な一歩というのが現実だ。それを等身大に示すことが今必要なのではないか。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈ChannelAJERプレミアムメールマガジン平成27年3月26日付〉