何のための「憲法改正」なのか

 国会ではいよいよ憲法改正に向けての歩みが始まったようで、来年には発議・国民投票、という見通しも現実味を帯びている。

 しかし、一抹の不安というか、不満がないわけではない。この国会での議論を進める立場の与党幹部の発言にいささか疑問を感じざるを得ない部分があるからだ。当事者には当事者の苦労があるとはいえ、ここは遠慮なく、筆者の感想を述べさせていただく。

 報道によれば、自民党は憲法審査会での議論促進のため、当面の議論対象として、①災害時の緊急事態条項、②環境権など新しい人権、③財政規律条項――の三項目を各党に提案し、それに沿った議論を進めていく方針だとされる。反対派も含めた各党を議論に巻き込んでいくためのいわば誘い水としてこの項目が選ばれたというのだが、果たしてどこまで細部を考えた上での提案なのか、筆者としては疑問を抱かざるを得ない。

 例えば環境権だ。これが憲法に入ったとする。そこで考えなければならないのは、待っていましたとばかりにこの権利を盾に訴訟が乱発されるケースだ。果たしてそうなった時に、この規定は裁判規範として有効に機能するのであろうか。つまり、何が憲法で保障される権利であり、何がそうでないのか、そうした細部の定義に関わる問題が充分に検討されたようには思われないのだ。「環境権とは原発の恐怖から自由に生きる権利のことだ」などといった主張が仮に出てきた時にどうするか。かかる事態が真剣に検討されているようにはとても思われないのだ。

  財政規律条項についても同様だ。一体この規定で、政府や国会にどのような政策をとらせようというのか。それは単なる宣言規定なのか、また規律それ自体はよいとして、それは他の何を措いても優先されるべき絶対の原則なのか……等々、疑問は尽きないといってもよいからだ。これなら反対派も議論に乗ってくるのではないか、といった発想はわからないではないにせよ、だからといって簡単なノリだけで憲法を考えられたのでは、そもそも「何のための改正か」という話にもなろう。

  その意味で、ここで改めて考えてみたいのは、憲法改正とはそもそも何のためのものか、という問題だ。むろん、これには様々な答えがあろうが、少なくとも筆者は、それはこの憲法がその本質においてもつ根本的な欠落を補うためのもの、とまずは捉えている。この憲法は占領政策の一環として強要され、その結果この日本を本来の国家たらしめないための制限や欠落をその本質的な要素としてきた。そして、それが今日に至るまで、この日本国家を根本的に縛ってきた、と考えるからだ。

 それゆえ、憲法改正とは、まずはこの欠落に関わる問題を補うものだと考える。国家とはまず何を措いてもその存続が確保されるべきものであり、そのためには、まず国家防衛の確固たる機能をもたなければならないし、非常事態対処の機能をもたなければならないし、何よりも国民にそうした事態に対処する覚悟をもたせるものでなければならない。また、そうした目的のためには、そもそも国民再生産の基盤たる家族を積極的に保護する構えも同時にもつべきものだともいえる。残念ながら、わが憲法にはこのような根本の問題に関わる重大な欠落があり、それを何としても補うべき緊急性と必要性があると思うのだ。

 むろん、環境権や財政規律がダメだ、というのではない。しかし、ものにはまず「本と末」というものがあるのではないか。それが逆になれば、恐らく議論は軸を失って拡散し、そもそも何のための改憲か、という「根本」が不分明なものとなろう。そうさせないためにも、まず「本」の確認というものが第一だといいたいのだ。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成27年4月号〉