天皇・皇后両陛下、パラオ行幸啓に思う

 清浄きわまりなき聖なる中心。この度の天皇・皇后両陛下によるパラオ行幸啓を拝し、改めてそのご存在をこのように感じた。

 東京には「空虚な中心」がある、と指摘したのはフランスのある哲学者だったと記憶するが、まさにこの両陛下のお姿に、世俗の政治的な次元、あるいは権力的な次元を超えた、「聖なる中心」がこの日本にはあるのだ、と改めて感じさせられたといえる。それは政治的・権力的な次元からいえば、まさに「空虚」という他ない。しかし、それはこの日本という国をより清らかな存在たらしめ、われわれ国民により高い精神の世界の所在を示す偉大な力をもったご存在だともいってよい。

 「美しい海に臨む慰霊碑に、天皇、皇后両陛下は日本から持参された白菊の花束を供えられ、深々と拝礼された。この瞬間、戦陣に散った英霊たちとその遺族、そして生き残った元日本軍兵士の心は何ものにも代え難い癒やしを受けたに違いない」

 世界日報社説はこのように書いたが、これは当日のテレビを見ていたわれわれもまた同じく感じた思いでもあった。「これ以上の光栄はない。英霊たちもありがたいと思っているでしょう」とペリリュー戦の生き残り兵・土田喜代一さんは述べたが、これはわれわれ日本国民が等しくもつことのできた感激と確信であり、両陛下以外誰にもなしえない「救い」の業でもあったということなのだ。

 この世には、かかる「救い」がなければ解決しない問題が幾つもある。被災者を慰め、激励されるといったことも当然そうだが、今回の行幸啓のような、この国のため戦陣に散っていかれた人々への「慰霊」はまさにその代表的なものだといえる。そしてそれは、まさにそれを誠心誠意、身をもって実践して下さる両陛下のご存在があって初めて成り立つ業なのだ。何という素晴らしい国か、と思うと同時に、何というありがたいことか、としみじみ思わされた。

 むろん、このパラオという島で、一万五千名もの日本兵が玉砕した、という言語に絶する事実に改めて襟を正されたことも指摘しておかねばならない。「ペリリュー島日本守備隊は、祖国のために全員忠実に戦死せり」と米軍公刊戦史にはあるとのことだが(新保祐司、「正論」4・7)、ともすれば安穏な日常生活の中で、そのような重大な事実を時にスッカリ忘れてしまっているわれわれに、両陛下はそうであってはならない、と身をもってお示しになられたということでもあるのではないか。

 そう考えた時、もう一点指摘したいと思うのは、この両陛下の行幸啓を、単に「繰り返されてはならない戦争の悲惨さ」という視点からのみ報じようとしたマスコミの姿勢である。確かに陛下のお言葉の中にそれといったものを指摘することはできる。しかし、それはマスコミが考えるようなただパターン化された戦争観・平和観とは次元の異なるものなのだ。

  その意味で、われわれが注視すべきは、今回の「おことば」にある「祖国を守るべく戦地に赴き、帰らぬ身となった人々のことが深く偲ばれます」の一節ではないか。兵士たちは「祖国を守るべく」戦地に赴いたのだ、と陛下は述べておられるのである。と同時に、「太平洋に浮かぶ美しい島々で、このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います」ともある。これは戦争へのあれこれの批評的立場を排され、恐らく避けることのできなかったあの戦争を、「このような悲しい歴史があった」と、ただ重くそのままに受け止められるお言葉だと思うのだ。

  戦争というものは単純なものではない。陛下はその事実を深く受け止められつつ、ひたすら深い慰霊の祈りを捧げられたのだ。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成27年5月号〉