もう一つの教科書問題

 かつて中学校歴史教科書にいわゆる「慰安婦」問題が一斉に記述されたことがあったが、今ではほとんど消滅している。今、問題となっているのは日本の教科書ではなく、米国の教科書である。マグローヒル社という大手の教育出版会社が出版した高校の世界史教科書『トラディションズ・アンド・エンカウンターズ(伝統と交流)』である。この教科書は「日本軍は一四~二〇歳の約二〇万の女性を慰安所で働かせるために強制的に徴用し、慰安婦になることを強要した」「多くは朝鮮や中国からの慰安婦だった」「戦争終結時に証拠を隠すために、日本兵は多くの慰安婦を殺害した」「慰安婦は天皇からのプレゼント」など事実無根の記述を並べたてた。さすがの外務省もニューヨーク領事館が訂正を申し入れ、日本の学識者たちも抗議し訂正を求めたが、出版社も執筆者の学者も訂正を拒否しているという。

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 ここでは、もう一つの実例を紹介したい。高校教科書『伝統と交流』はカリフォルニア州ロサンゼルスの複数の高校で実際に使われ、別の州でも教科書候補になっているらしいが、十年ほど前から使われている教科書がある。アンドルー・ゴードンというハーバード大学の歴史学教授(日本近現代史専攻)が書いた『日本の二〇〇年』(日本語版はみすず書房から上下二巻で出版されている)という日本近現代の通史である。「大学で日本やアジアについて学ぶ英語圏の学生向けの日本近現代史の教科書」(翻訳者あとがき)であり、十数年前に出版された原著は版を重ねているというのだから、米国ではそれなりに広く使われていると言えよう。

 いわば大学での教科書的書籍であり、知識層向けの日本史とも言うべきこの本だが、慰安婦に関してはまったくの事実誤認だらけである。慰安婦は「八〇%が朝鮮人女性で、残りの二〇%は中国人女性と日本人の女性が中心」だとし、「なかには銃で脅され拉致された人たちもいた」「女性たちの多くは、賃金の支払いを受けなかった。なかには『手当て』と称して軍票での支払いを受けた者もいたが、軍票は石鹸や食品などの日用品を買う以外には使い道はなかった。つまり、女性たちは売春というよりも奴隷に近い状態で働かされていたことになる」「その数は一〇万人から二〇万人の間と推定されている」等々。

 逐一、証拠をあげて反論はしないが、いずれも日本では完全に論破され、相手にするほどのこともない類のウソである。このゴードン教授が「註」としてあげているのは、一つはジョージ・フィックス著『慰安婦』、もう一つが日本の渡辺和子という女性学者・運動家の英語論文である。フィックス本の杜撰さは既によく知られているが、渡辺論文も日本の左翼活動家の主張を英訳した宣伝文と言える。この教授は、そんな代物に依拠して慰安婦問題を記述したと言える。

 日本史の研究者として「高い評価」(翻訳者)を受けている学者が、こうした虚偽を通史の中で書いてしまうと、その出所が虚偽の政治宣伝であっても、根拠のある主張であるかのように受け止められかねない。裏金を正当な資金と変えることをマネーロンダリング(資金洗浄)というが、一種の「虚偽ロンダリング」が行われているとも言える。もっとも、ゴードン教授は、安倍首相を「自民党内でもきわめて国粋主義的な勢力の代表格」と書くなど、リベラル色は明らかだから、分かった上でのことなのかもしれないが……。

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 マグローヒル社の高校教科書、ゴードン教授の『日本の二〇〇年』だけでなく、米国で慰安婦を巡って虚偽を拡散する主張は探せば他にも見つかるのではあるまいか。この問題では米国が主戦場となっているにもかかわらず、英語で書かれた客観的な慰安婦問題の書籍や論文という「弾」が少ないと言われているが、それだけでなく、そうした「敵情」調査にも手が回っていないのが現状と言えよう。この大きなハンディキャップを埋めるのは並大抵のことではなく、官民合わせた国家的事業とさえ言える。その意味でも、外務省はクール・ジャパンを宣伝するためのジャパン・ハウスに予算をつぎ込んでいる場合ではないと思うことしきりである。(日本政策研究センター所長 岡田邦宏)

〈『明日への選択』平成27年5月号〉