バンドン会議で安倍首相は何を語ったか

 安倍首相は米国訪問に旅立つわずか四日前、インドネシアで開かれていたバンドン会議六十周年の集いに出席していた。戦後七十年にあたって歴史認識を巡ってどのような演説をするのか、また習近平主席との首脳会談はあるのか、という点に注目が集まった首相の会議参加だったが、一方、バンドン会議の持つ意義について触れる報道はなされなかった。

 しかし、日本こそこのバンドン会議に注目すべきだと言える。正式名称はアジア・アフリカ会議(A・A会議)であり、第一回が昭和三十年四月にインドネシアのバンドンで開催されたためにバンドン会議と呼ばれている。インドネシア、インドやセイロン(現在のスリランカ)などが呼びかけ、戦後独立を達成したアジアとアフリカの国々が初めて開催した国際会議だった。

 そこにはインドのネルーやエジプトのナセル、インドネシアのスカルノ、中共の周恩来なども出席し、日本も招待された。この会議に出席した加瀬俊一氏はこう述べている。

 「この会議の主催者から、出席の案内が来た。日本政府は参加を躊躇していた。アメリカへの気兼ねもあったが、何分現地には反日感情が強いに違いない、と思っていた」

 しかし、そうした予想は大きくはずれることとなる。「こんな会議が開けるのも、日本のお陰ですと、『やぁー、こっちへ来て下さい』、『いやぁ、今度は私のところへ来て下さい』といってね、大変なもて方だった」というのである。というのも、「(各国代表からは)『日本が、大東亜宣言というものを出して、アジア民族の解放を戦争目的とした、その宣言がなかったら、あるいは日本がアジアのために犠牲を払って戦っていなかったら、我々は依然として、イギリスの植民地、オランダの植民地、フランスの植民地のままだった。日本が大きな犠牲を払ってアジア民族のために勇戦してくれたから、今日のアジアがある』ということだった」(平成六年の講演)。

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 ここで触れられている「大東亜宣言」とは、戦時中の昭和十八年十一月、日本が東京で開催した「大東亜会議」においてアジア七カ国の首脳が出した宣言のこと。そのなかでは「人種的差別の撤廃」が明記されていた。戦後の歴史教育では日本の戦争遂行のためだとか、傀儡政権の集まりだとか批判されているが、しかし、アジアでは「大東亜宣言」とこのバンドン会議は深くつながっていると受け止められている。大東亜会議にビルマの国家元首として出席したバー・モウは戦後の回想録のなかでこう指摘している。

 「この偉大な会議(引用者註・大東亜会議)はアジアにわき起こっている新しい精神を初めて体現したものであり、それは十二年後、アジア・アフリカ諸国のバンドン会議で再現された精神であった。この精神は、すでに一九四三年の東京での会議で産声をあげたものだったのだ」(『ビルマの夜明け』)。

 バンドン会議のルーツは昭和十八年の大東亜会議にあったと言うのである。敗戦から十年後の歓迎ぶりは、アジア国々がそのことを忘れていなかった証拠と言える。

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 むろん、アジアの独立は決して簡単に達成されたのではない。昭和二十年八月以降、各国で独立の戦いがあった。インドネシアでは、植民地を回復しようとしたオランダとそれを支援するイギリスを相手に四年間にわたる独立戦争が戦われた。

 その独立戦争には現地に残留した日本兵二千人が参加し、千人が戦死したという。大東亜戦争は敗戦後も形を変えて戦い続けられたと言えよう。インドネシアはその元日本兵に勲章を贈り、亡くなれば独立の英雄として国軍葬をもってカリバタ国立英雄墓地に埋葬している。

 バンドン会議六十周年の集いの開会式後、安倍首相はこのカリバタ英雄墓地を訪れ戦没者の碑に献花するとともに、元日本兵の墓地にお参りし献花と献水をした。首相は、演説ではアジア独立やバンドン会議と大東亜戦争との関係について語らなかった。しかし、この行動がバンドン会議の歴史的意義を雄弁に語っていると思えるのである。ただ日本の主要紙はこの事実を伝えることはなかったために、ほとんど知られていない(産経のみ五月九日付のコラムで報じた)。(日本政策研究センター所長 岡田邦宏)

〈『明日への選択』平成27年6月号〉