平和主義が戦争を誘発するという逆説

 「戦争をしてはいけない」というのが、今や護憲派の殺し文句と化している。まさに絶対の命題で、これをいわれると、すぐには返す言葉が出てこないからだ。

 とはいえ、実はこの言葉には逆の面がある。端的にいって、第二次世界大戦はむしろこの言葉によって起こった、ともいってよいからだ。周知のように、この大戦はヒトラー・ドイツによるポーランド侵略を引き金に起こったのだが、実はここに至る前、あえていえば幾つかの段階でそれを事前に止めるチャンスがあった、というのが史家の定説である。ところが、その当事者である英仏はそのチャンスを逃した。ヒトラーの前に立ち塞がれば戦争になる。つまり、「戦争をしてはいけない」という国内の平和主義の世論に縛られ、ずるずるとその行動を追認しているうちに、ついに最悪の戦争を余儀なくされるという事態に追い込まれたのだ。

 第二次大戦となり、海相、後に首相として英国を率いることとなったチャーチルは、戦後有名な回顧録(『第二次世界大戦』)を書くこととなるが、その序文でこの戦争を「無益な戦争」と呼び、これほど防止することが容易な戦争はかつてなかった、と書いている。つまり、英仏がヒトラー登場の当初からその危険性を見抜き、その行動に対し必要な対抗措置をとり、断固としてこれと対決する道を選んでいたならば、ヒトラーもまたその野望実現に対する壁の厚さを認識するに至り、結果としてこの戦争もまた回避されていたに違いない、との痛恨の思いを記したのだ。彼はかかる認識から、この六巻からなる回顧録の第一巻を「迫り来る嵐」とし、第一章を「勝者の愚行」と題した。

  一方、この認識はヒトラー側の記録からも立証される。再軍備、ラインラント進駐、オーストリア併合、チェコスロバキア解体……等々、ヒトラーは当初、そうした行動をとるに当たって、実は英仏の反応が読めず、疑心暗鬼の心境に留まっていたからだ。しかし、結果として英仏は行動に出なかった。そこでヒトラーは成功の度毎に自信を深め、彼らを「要は戦争ができないのだ」と見下し、大胆になっていったのである。「西欧民主主義国は、彼ら自身が直接攻撃を受けない限り、暴力の前には頭を下げる」――と。

  つまり、ヒトラーをこのように思わしめたものが、要するに「戦争をしてはいけない」という英仏の平和主義の世論だったのである。野田宣雄氏は書いている。

  「三〇年代のイギリスの世論の動向といえば、まず指摘しなければならないのは、その平和主義的ムードのつよさであろう。第一次大戦の惨禍はイギリス人の心理にふかい爪あとをのこした。そして三〇年代にはいっても、イギリス人は、平和の維持をいっさいのことに優先させる気持ちにかられていたのである」

 そして、この平和主義が最後の決定的な愚行を犯したのが、有名な「ミュンヘン会議」であった。チェコスロバキアへとヒトラーが毒牙を向けた時、「戦争をしてはいけない」との名分の下、むしろヒトラーを阻止するのでなく、その要求を叶える形で彼との宥和を求めたのがこの会議であり、その立て役者となったのが英国のチェンバレン首相であったからだ。

  しかも、そのチェンバレン首相を会議後、英国の世論は平和を勝ち取った凱旋将軍のごとく歓呼をもって迎えた。ロンドン・タイムズは「戦場から勝利を持ち帰った征服者の中で、これ以上に高貴な月桂冠に飾られた者はいなかった」とまで讃えたのだ。

 しかし、その宥和外交の結果がヒトラーの更なるポーランド侵略を呼び、第二次大戦となったことは今や誰もが知っている。我々はこの教訓を忘れてはならない。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成27年8月号〉