「安倍談話」をどう受け止めるべきか

 敵を極小化し、味方を最大化する、というのが国際政治の要諦だという。今回発表された戦後七十年談話を一読し、筆者の脳裏に浮かんだのはこの言葉だった。

 この談話を米国をはじめとする多くの国々が歓迎し、高く評価しているとメディアは報じている。中韓の反応も今のところはかなり抑制的だといってよい。そして、国民の反応も「評価する」が大勢を占め、安保法制への反発でこのところ低下していた安倍内閣への支持率を回復させるというおまけまでついた。あくまでも冒頭の言葉の趣旨のみからいえば、今回の談話は成功といってよい。

 むろん、われわれが求めたのはこうした効果のみではない。一方的に日本を貶めた村山談話を、先人たちの名誉のためにも、この際明確に否定できないまでも、少なくともそれを無化する談話を発表してもらいたい、というのが心ある国民の願いであった。そのためには「敵は千万人といえども」の断固たる覚悟と勇気をもって日本の主張を展開して欲しい、そう祈り、切望してきたのである。

  こうした立場からいえば、今回の談話がわれわれが期待していたものと幾分ズレがあるのは否定し難い。とすれば、このことはどう受け止めるべきなのだろうか。

  これに対して筆者は、この談話はあくまでも現在国際社会の中に置かれた日本の位置という観点から評価する他ないのではないかと指摘したい。つまり、われわれは日本にとっての歴史的真実をストレートに国際社会に訴えて欲しいと安倍首相に期待してきたが、考えてみるべきはそれを無防備に首相が行った時の国際社会の反応である。恐らく「歴史修正主義」との批判が米国を始めとして各国から起こり、真意は伝わるどころかむしろ歪曲され、中韓からはそれ見たことかと、これまで以上の反日宣伝が繰り出されるであろう。そして、日本への誤解はむしろ深まる。そんなものに臆する必要はないと一部の人はいうかもしれないが、少なくとも世界での情報戦に影響力をもち得ていない今の日本にとって、それは決して軽視することのできない深刻な問題になり得ると筆者は考えるのだ。かく考える時、それでもそうした道をあえて選択すべきなのか。

  とすれば、「押さば引け」の極意にもあるように、今回のようにあえて一歩退き、自虐は排しつつ、中韓や世界の反日屋に付け入る隙を与えさせない慎重なメッセージを工夫するとともに、むしろ和解を前面に掲げ、一方、日本が表明すべき世界の誰もが共感する主張については、むしろこれを積極的に発信し、理解者を増やすという手法は実に賢明であるとともに、国益を最大限に守る道でもあった、と筆者は考えるのだ。

  ちなみに、メディアは今回の談話は「侵略」や「お詫び」という村山談話のキーワードをそのまま盛り込んだもの、と報じている。しかし、実際の談話を読んでいただきたいのだが、安倍首相はこれらの言葉を村山談話のような形では用いていない。盛り込みは公明党などの要望を容れてのものであろうが、盛り込むに当たってはそれを一般的な文脈に置き換える等、慎重な配慮が加えられていることを忘れるべきではない。つまり、これらの言葉を盛り込めという主張には従ったが、趣旨そのものは換骨奪胎されているのだ。

  そしてその上で、「戦争には何らの関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と述べている。ここに談話の最大の狙いがあることはいうまでもないが、これをもってこの不毛な議論を終わりにしたい、と宣言したのだ。この談話で村山談話は上書きされた。これからはこれが政府の正式見解となろう。高く評価したい。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成27年9月号〉