放置できない北朝鮮のウソ【強制連行】

放置できない北朝鮮のウソ【強制連行】

「強制連行」八四〇万人、「従軍慰安婦」二〇万人?

確認しておくべき「従軍慰安婦」と「強制連行」に関する基本的事実


 

◆緩やかだった朝鮮での戦時動員

 次に、北朝鮮が八四〇万というデタラメ数字を挙げて「被害」を訴えている「朝鮮人強制連行」について、事実関係を改めて整理してみたい。

 「強制連行」という言葉には、日本は嫌がる朝鮮人を無理やり日本に連れてきて、奴隷のように酷使したというイメージが伴うばかりか、ナチスによる「ユダヤ人強制連行」という国家犯罪さえ連想させる。

 いわゆる「朝鮮人強制連行」とは、一般的には昭和十四年に始まる戦時期の労務動員を指してこの言葉が使われている。要するに、戦争遂行に不可欠な労働力を確保するための戦時動員であるが、これは果たして「強制連行」と称すべきような「国家犯罪」だったのか。

 まず、忘れてならないのは、当時の朝鮮半島は日本帝国の一部であり、朝鮮半島の人々も日本国民であったことである。そうである以上、朝鮮人が戦時動員の対象となったのはきわめて当然のことだったといえる。多くの日本人の男性は戦場に送り出されたが、労務動員は徴兵を代替するものだったからだ。しかも、それは合法的に行われたものであり、決して国家犯罪などではない。

 また、当時の朝鮮人に適用された戦時動員の実態から見ても「強制連行」論は成り立たない。日本内地では昭和十四年に国民徴用令が発せられ、日本国民全体に対して同年七月から戦時動員が開始された。しかし、朝鮮人に徴用令が適用されるのはその五年後の昭和十九年九月以降であり、それ以前は、内地と比べれば遙かに緩やかな動員システムが適用されていたからである。

 まず十四年九月から、「自由募集」という方式で動員が始まるが、これは炭坑などの事業主が、総督府が指定する地域で労務者を募集し、それに応じた人たちが集団渡航するというものだ。強制性は全くないため、二五万五千人の動員計画に対して一四万七千人しか集まらなかった。

 そこで昭和十七年以降、行政の責任で労務者を募集する「官斡旋」の方式が採用された。これは事業主が総督府に必要人員を申請し、総督府が道(日本の県に当たる)に人数を割り当て、道はその下の行政単位である郡や府を通じて、邑や面に人員を割り当てるという方式である。

 さらに昭和十九年九月に「徴用」が発令される。これは徴用令書によって指定された職場で働く義務を伴う、いわば徴兵に準ずるものだ。

 このように、朝鮮半島では三段階の動員が行われたわけだが、そのうち法的強制力をもつのは徴用のみで、募集や斡旋は応じなくとも罰則はなかった(徴用は拒否すれば一年以下の懲役又は千円以下の罰金)。

 なお、斡旋や徴用によって動員計画の達成率は確かに表面的には八〇%まで上昇し、その期間の動員数は五二万に達した。しかし終戦の際、動員現場にいた朝鮮人の数は、動員総数の半分以下の三二万余りに過ぎなかった(動員総数は厚生省統計で六六万七千余人)。「契約期間をすぎて帰還したもの」や「職場を離れて他に移動したもの」が多かったため(森田芳夫著『数字が語る在日韓国・朝鮮人の歴史』)だという。法的強制力を持つ徴用も、実際はさほど効果を持たなかったということでもある。

 

◆大半の朝鮮人は自発的に日本に来た

 次に指摘したいのは、戦前の日本には、大量の朝鮮人が自らの意思で渡ってきていた事実である。日韓併合以降、日本内地在住の朝鮮人は一貫して増え続け、昭和十四年に戦時動員が始まった時点で、すでに八〇万人もが内地に在住していた。彼らは「出稼的労務者として、日本内地に渡航し、職や住所を転々としつつ漸次生活の基盤を開拓し、その家族をよびよせたのであり、かつ、たえず朝鮮の故郷の地と往復していた」(森田・前掲書)という。

 注目すべきは、この「出稼ぎ」渡航は戦時動員が始まって以降も終戦まで、戦時動員と並行して続いていたことである。先に募集による動員は一四万七千人に止まったと述べたが、同じ時期にその三倍の約四四万人が募集以外で内地に渡っている。また斡旋・徴用による動員は五二万人であったが、その期間の渡航者総数は一三〇万七千人だ。つまり、半島からの渡航者の約六割は全くの自由意思で日本にやって来たのである。

 この事実を見ても、募集や斡旋を「強制連行」と呼ぶのは実に不可解だといえる。その何倍もの人たちが自ら旅費を払い、恐るべき「強制連行」先である日本へ渡航していたことになってしまうからである。何とも辻褄の合わない話ではないか。

 それだけではない。正規の手続きを踏まない朝鮮人の不正渡航者が戦時動員中も急増し、中には募集や斡旋を内地渡航の手段として利用した者も多かった。当時の朝鮮人の内地への渡航熱が窺えるが、行政当局は「強制連行」どころか、むしろ不正渡航者を止めていたのである。昭和十四年から十七年までに一万九千人が日本の港から朝鮮へ送還されている。「強制」というならば、この朝鮮への送還こそが「強制」であったのだ。

 こうした朝鮮人の日本への渡航熱の主な原因としては、当時の朝鮮半島の人口急増、当時の日本の労働力需要などが挙げられる。在日自身が調べた報告書にも、「食えないから日本に来た」とか「日本人の生活はうらやましく思った」とか「日本に憧れていた」といった「証言」が記されている。要は、プッシュ(推進)とプル(誘因)という二つの要因によって、「内地は朝鮮半島の人口増を吸収する場となり、朝鮮人が渡航してきた」(鄭大均氏)という話である。一種の経済現象といってよい。

 戦時動員とは結局、こうした澎湃たる「出稼ぎ」渡航の流れを、戦争遂行のための炭坑などの労働へと転換させようとしたものだったともいえる。この点でも「強制連行」論は成り立たない。

 

◆北朝鮮発のイデオロギー

 では一体、「強制連行」という言葉はどうして使われるようになったのだろうか。

 もちろん、「強制連行」という言葉は戦前・戦中には存在しない。これは戦後のある時期から使われ始めた造語である。この造語が一般に流布する契機となったのは、朴慶植という在日朝鮮人が昭和四十年に書いた『朝鮮人強制連行の記録』(未来社)という一冊の本だとみなされている。

 この本が出版された昭和四十年は日韓基本条約が締結された年だが、本書には日韓条約が日本の「南朝鮮」への再侵略だとする情勢認識や「強制連行六〇〇万人説」など、日韓条約に反対していた北朝鮮の主張が記されている(北は最近まで「強制連行六〇〇万人説」を主張していた)。

 本書の執筆動機について、鄭大均氏は何よりも日韓条約を「阻止するための作業」だったと断じ、本書の意図を「日本人に集団的な罪意識を植えつけること」にあったと喝破している(『在日・強制連行の神話』)。つまり、「強制連行」論のルーツにあるのは、日本の加害性を強調することで自らの政治的要求を実現しようとする意図だったといえる。

 一方、戦後の韓国の李承晩政権は反日政策を推進し、日本政府に過去の清算を強く迫った。だが、その李承晩政権すらも「強制連行」という言葉は使っていない。日本に対して同政権が補償を求めたのは、あくまで徴用についてであり、その内容は未払い賃金であった。つまり、徴用自体については何ら問題にしていない。その上、この問題については日韓条約によって、「完全かつ最終的に解決され」てもいる。

 このように見てくれば、「強制連行」論は結局、日本人の加害性を強調するために捏造された北朝鮮発のイデオロギーだといえよう。

 なお、北朝鮮は現在の「強制連行八四〇万」はもちろん、かつての「六〇〇万」の主張についても明確な根拠を示したことはない。が、同じく「六〇〇万」を唱える朴氏の本によれば、六〇〇万の主体は半島内の勤労奉仕の参加者数であり、その上、徴用数なども全て水増しされている。詳しくは、当センター刊『「強制連行」はあったのか』に譲るが、これを踏まえれば、「八四〇万」という数字がいかに根拠のないデタラメな数であるかは自ずと明らかだ。

〈『明日への選択』平成18年4月号〉