再浮上・夫婦別姓問題 最高裁よ、「親子の絆」を断ち切るなかれ!

昨日(11月4日)、「夫婦別姓」をめぐる訴訟の弁論が、最高裁大法廷で行われた。すでに結審し、年内にも最高裁の憲法判断が示されるという。

今日の新聞報道を見ていると、夫婦別姓を認めない民法の規定が「女性差別」であるとか、これまで民法を改正しなかったのは「国の不作為」といった話ばかりが書かれているが、夫婦別姓制度の導入が「子供に与える影響」についてほとんど言及がないのは、なんとも違和感がある。

そもそも「夫婦別姓」は「親子別姓」を意味している。子供にとっては、自分の父母の姓がバラバラになるだけではない。自分自身も父母のどちらかと異なる姓を強いられることになるわけだ。これが親子の関係に何の影響も及ぼさないはずはない。

そこで、この弁論を前にわれわれが発表した論文を掲載しておきたい。長文だが、国民生活の基盤に関わる問題なので、是非お読みいただきたい。

 


 

再浮上・夫婦別姓問題

最高裁よ、「親子の絆」を断ち切るなかれ!

(『明日への選択』平成27年10月号所収)

 

◆別姓推進派が礼賛する憲法学者の意見書

 今年、中学生が惨殺される凶悪事件が相次いで起きている。特に川崎市で二月、上村僚太君が高校生らに刃物で全身を切り刻まれて殺害された事件は、日本全国に大きな衝撃を与えた。さらに今夏、寝屋川市で平田奈津美さんと星野凌斗君が殺害され、粘着テープを巻かれて遺棄されるという痛ましい事件が起きた。

 罪のない少年少女を虫けらのように殺めた犯人らが万死に値することは言うまでもない。そのことを大前提とした上で、敢えて言及せざるをえないのは、被害者となった子供たちの「複雑な家庭環境」だ。

 上村君の両親は離婚し、五人の子供を育てていた母親は、仕事で多忙なこともあり、上村君が夜中に遊び回るのも放任状態だった。星野君の母親は二回離婚したこともあってか、子供を「溺愛」していたとされる。平田さんの家庭は父親が働けなくなり、母親が昼夜働きづめで母娘の仲も悪く、奈津美さんが深夜徘徊を繰り返すようになっても放任していたという。

 こうした報じられる「現実」から改めて浮かび上がるのは、安心できる家庭環境こそは子供の幸福の源だという自明の理であろう。しかし残念ながら、今や家族崩壊は日本社会で日常的に起きている。離婚率や児童虐待件数の増加は、そのことを端的に物語る。

 こうした中で、現代の多くの親たちは、いかに正常な親子関係を築き上げるかに悪戦苦闘を強いられている。ところが今日、事もあろうに最高裁が、親子の絆の土台を崩すことになりかねない可能性が生まれている。選択的夫婦別姓制導入の動きである。

 現行の夫婦同姓制が家族の絆や一体感の土台となっていることは疑いない。それに対して、夫婦別姓は「親子別姓」を意味しており、親子の絆の土台を壊しかねない危険をはらんでいる。

 最高裁は今年六月、夫婦同姓を定める民法七五〇条が憲法に違反するかが争われた訴訟について、当事者の意見を聞く弁論を十一月四日に大法廷で開くことを決定した。大法廷での審理は、法律の憲法判断を下す場合などきわめて異例とされる。二年前の大法廷では、非嫡出子の相続を半分としていた民法の規定が憲法違反とされたことは今も記憶に新しい。当然、夫婦同姓制が憲法違反と判断される可能性は否定できない。

 実際、「別姓訴訟を支える会」のサイトを見ると、最高裁の違憲判決を勝ち取るべく着々と準備を進めてきた様子が分かる。例えば昨年、高橋和之東大名誉教授が最高裁に意見書を提出したが、原告団長は「別姓を望む多くの方々の4年間の闘いの上に、凛として高橋和之先生の意見書は生み出され、最高裁は、輝くことでしょう」と、まるで鬼の首でも取ったかのようにはしゃいでいる。

 だが、この著名な憲法学者の意見書を一読し、そこに看過できない〝まやかし〟を感じざるを得ないのも事実であった。最高裁が良識ある判断を下すことを念じつつ、この意見書に批判的な検討を加えたい(民法上は「氏」の呼称が使われるが、本稿では引用以外は「姓」、「別姓」を用いる)。

 

◆高橋意見書に見る「家族解体の論理」

 まずは、高橋意見書の中身を簡単に見てみよう。意見書の言及は多岐にわたっているが、そのポイントは次の三つの主張に絞られる。

①民法の夫婦同氏制は形式的には平等ではあるが、実体は「法的差別」と同じである。なぜなら、九六%の夫婦が夫の氏を称しており、これは「無視し得ない程度の差別」が生じていると言うべきだからである。

②こうした「差別」の主要な原因は憲法が許容するものではない。なぜならその主要な原因は「戦前の家意識の残存」であり、この家意識は「女性を男性と平等な個人として尊重するもの」とは言えず、「個人の尊厳と両性の本質的平等」という憲法の基本価値と整合しないからである。

③憲法の平等保障は「形式的平等」の保障ではなく、「実質的な平等」の保障、つまり「機会の平等」の実質的な保障を意味する。ところが、夫婦同氏制度は「実質的な平等」を害する規定となっており、その意味でも憲法二四条二項に反する。

 こうした主張をふまえ、意見書は「問題の根源は、夫婦は同氏でなければならないという前提にある」とする。そして「家族の一体感の維持・強化」という夫婦同氏派の論拠について、意見書は「別氏を望む夫婦に同氏を強制しても夫婦の一体感が得られることは期待できない」とし、「一体感が得られると考える夫婦は、自分たちが同氏にすればすむこと」だと批判する。その上で、「夫婦同氏の利益は全くないか、憲法により許されない利益のいずれかに過ぎない」と断じ、現行の夫婦同氏制は「可及的速やかに是正されるべき」だと結論づけている。

 高橋意見書の特徴を一言でいえば、「個人の尊厳と両性の本質的平等」(憲法二四条二項)を、他の何物にも優先すべき至上価値とみなす「個人原理主義」とも言うべき発想だと言える。逆にいえば、この意見書には、「個人」が成り立つための大前提である親子や家族という最も基本的な人間関係、つまり家族共同体の価値や、それをいかに維持するかという視点が欠けているのである。

 高橋意見書から想起されるのは、「家族にかかわる領域で『個人』を本気でつらぬこうとする見地からすれば、憲法二四条は、ワイマール憲法の家族保護条項とは反対に、家族解体の論理をも…含意したものとして、読むことができる」との樋口陽一氏の指摘である(『憲法と国家』)。憲法二四条に依って夫婦同姓制を否定し、夫婦別姓導入を正当化する高橋意見書は、まさに憲法二四条が「家族解体の論理」を含意していることを実証して見せたと言える。

 

◆「無視し得ない程度の差別」のマヤカシ

 とはいえ、選択的夫婦別姓制の導入を事実上求める高橋意見書は、わが国の家族制度の根本的変革に与している割には、事実認識がきわめて杜撰である。専門用語を散りばめてはいるが、印象論の域を出るものではない。

 第一の問題は、九六%の夫婦が夫の姓を称している現状を以て、意見書が「無視し得ない程度の差別」とか「法的差別」とまで断じていることだ。ここは意見書のキモとも言える部分だが、実はそこに重大な〝まやかし〟が横たわる。すなわち、九六%の夫婦が夫の姓を称している現状を以て、それを「差別」と評することは果たして妥当なのだろうか。

 そもそも「差別」とは、「特定の個人や集団に対して正当な理由もなく生活全般にかかわる不利益を強制する行為」とされる(ブリタニカ国際大百科事典)。つまり、「差別」の核心は「不利益の強制」にあると言える。とすれば、九六%の夫婦が夫の姓を称していることを「無視し得ない程度の差別」と言うからには、九六%の改姓した女性たちが「不利益の強制」を感じているという証拠が必要なはずである。

 しかし、意見書はそんな証拠は何も示していない。「無視しえない程度の差別」が生じているかどうかについては、「96パーセントもの事例の存在を前にすれば、論ずるまでもないと思われます。夫婦の氏の選択において性に基づく差別は、厳然たる事実として存在すると言わなければならない」と意見書は断じている。

 つまり高橋意見書は、九六%の改姓した女性たちが「不利益の強制」を感じているという証拠も挙げず、「無視しえない程度の差別」と断じているわけだ。証拠がないから、「論ずるまでもない」と逃げを打っていると言われても仕方がなかろう。

 では、事実はどうか。一つの有力な手がかりは、夫婦別姓に関する内閣府の調査(平成二十四年十二月)である。婚姻によって相手の姓に変わったとした場合,どのような感じを持つと思うか聞いている。「姓が変わったことで新たな人生が始まるような喜びを感じると思う」が四七・五%と最も高い。次に「相手と一体となったような喜びを感じると思う」(三〇・八%)、「姓が変わったことに違和感を持つと思う」(二二・三%)、「何も感じないと思う」(一九・一%)、「今までの自分が失われてしまったような感じを持つと思う」(七・四%)などの順となっている(複数回答、上位三項目)。

 おそらく、結婚による改姓を「不利益の強制」と感ずる女性がいるとすれば、「違和感を持つと思う」や「自分が失われてしまったような感じを持つと思う」に含まれよう。だが、それは高々三割程度である。しかも性別に見ると、第一と第二の「喜びを感じると思う」は女性で高く、「違和感を持つと思う」は男性で高い。

 少なくともこの調査からは、大多数の女性は結婚による改姓を前向きに受け止めており、差別意識を感じているとは到底言い難い。むろん、これは一つの調査に過ぎないが、「夫婦の氏の選択において性に基づく差別は、厳然たる事実として存在する」という意見書の主張には、確たる根拠がないことを強く示唆している。

 とすれば、夫婦同姓制を「法的差別」と断じることはできない。故に、こうした「差別」の主要因を戦前の家意識に求め、この家意識は「個人の尊厳と両性の本質的平等」という憲法の基本価値と整合しないから、同姓制は憲法が許容しないとする第二の主張も前提を失うことになる。

 

◆夫婦同姓は「実質的な平等」を害するか

 では、夫婦同姓制は憲法が保障する「実質的な平等」を害する規定であり、その意味でも憲法二四条に反するという第三の主張はどうか。

 この主張の前提には、憲法の平等保障は単なる「形式的平等」ではなく「実質的な平等」の保障、つまり「機会の平等」の実質的な保障であるとの考え方がある。夫婦同姓制は形式的には男女平等だが、家意識に縛られ多くの場合、女性の側が改姓を強いられており、「実質的には女性から選択の機会を奪っている」。だから同姓制は「実質的な平等」を害しており、憲法に反する制度であると意見書は断罪するのである。

 確かに、憲法の平等原則については「実質的な平等」とする見解もあるが、しかし通説は「形式的平等」と解している。「実質的平等の実現には、多くの場合、国家の積極的な作為が必要となるが、日本国憲法には生存権…をはじめとする社会権の明文規定があるので、実質的平等は社会権の作用を通じて具体化されると考えられるからである。…この規定(引用者注 第十四条)から実質的平等を実現すべき国の法的義務が導き出されるわけではないと考えられている」(池田実『憲法』)。

 また、夫婦同姓制が「実質的には女性から選択の機会を奪っている」との見解も検討を要する。むろん、九六%の夫婦が夫の姓を選んでいるという事実自体は、かかる「見解」の根拠とはならない。この「見解」を正当化するためには、結婚に際し自分の姓の「選択」を希望する女性が相当の割合で存在し、そのうち少なからざる女性が不本意にもその希望を実現できないでいるという事実が証明される必要がある。

 しかし、ここでも高橋意見書はそうした証拠を示さず、夫婦同姓制は「女性から選択の機会を奪っている」と指弾するのである。これでは、単なる印象論と言わざるを得まい。

 では、実態はどうか。残念ながら、記者にはその直接のデータはないが、やはり先の内閣府調査が一つの重要な手がかりとなる。夫婦別姓制を容認する女性(三五・五%)で、自らも別姓を「希望する」と答えた割合(二三・四%)が女性全体に占める割合を計算すると八・三%に過ぎない。もし結婚に際し自分の姓の「選択の機会」を奪われたとして不満を抱えている女性が大勢いるとすれば、こうした数字は理解しがたい。

 さらに、仮に百歩譲って憲法の平等原則を「実質的な平等」と解し、夫婦同姓制が「女性から選択の機会を奪っている」ことを認めたとしても、だからといって別姓制の導入を求めるのは甚だしい論理の飛躍と言える。

 「実質的な平等」の保障と言っても、それは「結果の平等」ではなく、あくまで「機会の平等」の実質的な保障に留まる。しかも後ほど触れるように、夫婦別姓制の導入は家族制度の根本的変革を意味しており、国民的な議論を要する。それ故、「機会の平等」の実質的な保障の措置としては、夫婦同姓制の下で、夫の改姓を増やすための啓発活動といったところが妥当と言えよう。

 

◆「木を見て森を見ず」

 このように、この意見書は著名な憲法学者の手になるものではあるが、事実認識の杜撰さが目に余る。

 しかし、問題はそれだけではない。この意見書の最大の問題は、夫婦同姓制の下での「姓」の役割を余りにも過小評価していることである。その結果、例えば選択的別姓の導入が親子の絆に与える影響への視点が全くない。その意味で、「木を見て森を見ず」の意見書と言わざるを得ない。

 先に記したように意見書は、「夫婦同氏は家族の一体感を維持・強化するために重要」だとする同姓制擁護派の主張に対して、「別氏を望む夫婦に同氏を強制しても、その夫婦にとって一体感が得られることは期待できない」「一体感が得られると考える夫婦は、自分たちが同氏にすればすむこと」だと批判する。

 しかし、こうした批判は間違っている。同姓制の下で姓はファミリーネーム、つまり「家族の名称」としての意味合いがあるが、選択的別姓制が導入されると、姓は「家族の名称」ではなく「個人の名称」に過ぎなくなるからだ。つまり、夫婦や親子が同姓を名乗ることはできても、それはもはや「家族の名称」ではないのである。事実、元法務省民事局参事官の小池信行氏(夫婦別姓制導入を含む民法改正案を答申した法制審の元幹事)はこう述べている。

 「夫婦別姓を認めることになりますと、家族の氏を持たない家族を認めることになり、結局、制度としての家族の氏は廃止せざるを得ないことになる。つまり、氏というのは純然たる個人をあらわすもの、というふうに変質するわけであります」

 小池氏自身は別姓容認派だが、こうした理解に基づき説いている。「夫婦別姓論者が反対論者に向かって、別姓を選ぶのは自分たちの勝手なのだ、おまえさん方が反対する理由がないのではないか、ということがあるのですが、この言い方は正しくない」と。高橋意見書の主張の間違いは明らかだと思われる。

 前出の内閣府調査によると、夫婦同姓制の維持派は六〇%で、夫婦別姓容認派は三五・五%。つまり、現行制度は国民の間に定着していると言える。それを特定の憲法原則を振りかざし、司法の力で変えるなどはまさに「司法の暴挙」に他ならない。

 繰り返しになるが、そもそも夫婦別姓は親子別姓を意味している。子供にとっては、自分の父母の姓がバラバラになるだけではない。自分自身も父母のどちらかと異なる姓を強いられることになるわけだ。これが親子の関係に何の影響も及ぼさないはずはない。

 現に前出の内閣府調査は、夫婦の姓が違うと子供に何か影響が出てくると思うか聞いているが、「子供にとって好ましくない影響があると思う」が六七・一%もある。中高生を対象とした民間のある調査では、六割以上が夫婦別姓に対して嫌悪感や違和感など反対の意思を表明している。逆に言えば、大半の子供たちは、父母は同じ姓を名乗ってほしい、父母と同じ姓を名乗りたいと思っているわけだ。当然のことだろう。

 ところが、先に触れたように、高橋意見書には、別姓導入が子供たちに与える影響への配慮が微塵もないのである。これでは、大人の都合の前には子供の福祉などどうでも良いと考えていると言われても仕方がなかろう。

 こう見てくると、「個人」や「平等」という憲法原理に依って大方の国民が支持する現行制度を廃止し、別姓導入を正当化する高橋意見書は、患者の身体全体への配慮を怠って患部だけを切除して能事足れりとし、患者を死に至らしめるヤブ医者を連想させる。

 仮にこんな杜撰な主張に引きずられ、最高裁が違憲判断を下すようなことがあれば、親子の絆はますます壊れていくだろう。その意味で選択的夫婦別姓制は、不幸な子供たちが増産される社会への「悪魔の選択」とも言える。そんな「選択」に最高裁が荷担し、国民の信頼を失うことがないよう、いわゆる「法の賢慮」を踏まえた判断を心より望みたい。(日本政策研究センター研究部長 小坂実)

〈『明日への選択』平成27年10月号〉

 

※関連書籍『だから危ない! 夫婦別姓』