「戦後保守」は終わらせるべきだ

 先日、『「戦後保守」は終わったのか』と題する、あるシンクタンク編集の新書を読んだ。「戦後保守」とは、「理念や理論が先走る強権的な国家のあり方に対する強い懸念」をもつ政治的立場で、それは痛切な戦争体験に基づくものだが、今やそうした「戦後保守」は見る影もなく、むしろ違憲の安保法制を強権的に強行し、日本を新たな「戦前」に引き込みかねない安倍政権による一強支配が現実だと、最近の日本政治の「根本変容」を問題とするのである。

 このように書くだけで、このシンクタンクの立ち位置は見えてくるともいえるのだが、率直にいって未だにこのような寝ぼけたことをいっているがゆえに、この「戦後保守」なるものは力を失っているのだ、といいたくなった。「日本は激変する内外の環境の下、再定義を迫られている国家的課題に十分に応えられなくなっている」とこの書はいうが、何よりもこの指摘を向けるべきは、戦後の革新はもとより、この「戦後保守」ではないか、と考えるからだ。

 何よりも、彼らの対外的認識に関して、それをいいたい。彼らには今日の世界の安保環境の「根本変容」が全く見えていないのではないか。例えば、最近の中国の傍若無人の大国主義的行動だ。

 安倍政権の対中姿勢や安保法制への対応をあれこれ批判するのはよい。ならば、どうやってこの「異形の大国」中国に対すべきだというのか。その中国への自らの認識と対案を、説得力をもって示すべきだと筆者はいいたい。にもかかわらず、やれ強権だ、新たな「戦前」だと騒ぐだけでは、もはや感情論以上のものではない。

 確かに、この日本ではかかる主張は未だに一定の支持者を得てはいる。しかし、問題はそれが国際的に通用する力をもち得るのか、ということだ。安保法制に対しては中韓を除くほぼ全てのアジア諸国、そして欧米諸国が歓迎した。この事実をどう考えるのか。

  一方、先日のフランスのテロ事件である。幸いなことに、日本はこれまでかかる問題とは一定の距離を保った形でやってこれた。しかし、今後は残念ながら、その可能性は減っていこう。来年の伊勢志摩サミット、五年後のオリンピック等々、日本の対イスラム姿勢の如何にかかわらず、日本が否応なくその標的とされてしまうといったケース、可能性はもはや否定できなくなっているからだ。

  ならば、あくまでも標的となることを避け、ただひたすら当たらず触らずでいくべきか。ここで是非とも指摘したいのが、先日行われたオランド大統領の演説だ。大統領は「今やフランスは戦争の中にある」と述べるとともに、次のように述べているのである。

 「『イスラム国』の撲滅は国際社会全ての課題だ。私は国連安全保障理事会に対し、テロと戦う共通の意思を示す決議の採択を求めた。……テロと戦う国が集う必要がある。私は近くオバマ米大統領、プーチン露大統領と会談し、我々の力を結集しようと呼びかける。……我々はテロに対応するため、憲法を進化させなければならない。憲法の条項は、もはや適当ではない。……我々はテロを粉砕する。……テロは『共和国』を粉砕できない。『共和国』がテロを粉砕するのだ。共和国万歳」

  これをどう受け止めるかは全くの自由だが、これが今日の国際社会における国家というもののいわば「世界標準」なのではないか。大統領は国際社会の意思結集を求め、改憲をいい、テロ粉砕を宣言している。にもかかわらず、当方では相も変わらず「戦争体験」だの「国家権力の抑制的な行使」という話なのだ。安倍政権がおかしいのではなく、「戦後保守」がむしろ現実離れし始めているという話だ。こんな「戦後保守」は、むしろ即刻終わらせるべきだ。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成27年12月号〉