憲法改正論議・先ず「国家存立の確保」を考えるべし

 最重要の改正点かどうかはともかく、憲法改正を論じようとする時、多くの人が問題として挙げると思われるのが、前文の以下のような規定ではなかろうか。

 「日本国民は……平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」

 昔の流行歌の「命預けます」ではないが、自国の「安全」のみならず「生存」まで他国民の「公正と信義」に預けるというのであるから、どう考えても尋常な決意ではない。ならば朝日新聞など、それだけの立派な決意があるのなら、大嫌いな安倍政権にだって全てを預けられるのではないか、と皮肉の一つもいってみたくなる。

 ところで軽口はさておき、この一節が少なくとも以下のようになっていたら、日本人の国家に対する感覚も随分と違っていたであろう、と筆者は時折想像する。

 「日本国民は……平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼しつつ、われらの総力を挙げて国家の存立を確保し、われらの安全と生存を保持しようと決意した」

 傍線部が筆者が手を加えた部分だが、これを入れるだけで、この恥ずべき一節も途端に真っ当なものとなるという話だ。例えば、これに続く「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」というフレーズにしても、単なる綺麗事的な願いから、日本国民の実際の決意のこもった内実ある宣言、という雰囲気が出てくるといえる。つまり、前文にともかく欠けているのは、「われらの総力を挙げて国家の存立を確保し」とする部分であり、これさえ入るならば、仮に他の部分に手を入れずとも、ともあれ国家としての最低限の形は整う、と筆者は考えるのだ。

 産経の「正論」欄で、「議論の本意」ということを渡辺利夫氏が書いているが、筆者は以前より日本国憲法に対するかかる「議論の本意」は、こうした「国家としての構え」ではないか、と主張してきた。国家である以上、まず求められるのはその「存立」と「独立」への意思で、これに関わる規定が欠落していることが、まさに日本国憲法最大の問題点ではないか、と考えてきたからだ。

 この夏の参院選に向けて、憲法改正の問題が争点となろうとしているが、そこで問われるのは、まず憲法のどこを変えるのか、ということであろう。その時、筆者が考えるのは、少なくとも可能な限りの国民に、この「国家存立への意思」ということを考えてもらいたい、ということである。渡辺氏はこれに引き続き、「一身の利害から国家のことを論じたり、眼前の『便不便』で将来を論じたりしてはならず」と書いているが、まさにこれこそがポイントだと考えるのだ。憲法改正となれば実現可能性が問題となり、そのためには環境権だの、字句の問題だの、八十九条の私学助成の問題だの、といった末梢的な議論が出てくるのが現実ではある。ただ、少なくともここで憲法を問題とするのであるならば、この国家に対する真っ当な感覚こそが、まず求められるものなのではなかろうか。

 その意味で、メディアなどの関心が憲法九条や国家緊急権の問題に向けられつつあるのは、よい方向ではないかと思う。憲法改正は簡単な問題ではないが、まずその前に国民がこの「議論の本意」たる国家というものに向き合うことは、何を措いても求められる課題だと思うからだ。憲法九条はまさにこの国家の根幹に関わる問題だし、国家緊急権もその存立に関わる不可避の問題だといえる。国家というとそれだけで国民は引いてしまう、という現実もあるにせよ、まずこの壁を乗り越えることが必要なのではないか。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成28年4月号〉