憲法解釈を変えないことが立憲主義なのか

 民進党の先生方はよほど立憲主義という言葉がお好きのようだ。目新しい玩具を手にした赤ん坊のよう、といったら失礼かも知れないが、二年ほど前から、ことある毎にこの言葉が登場する。先般の新党名決定に当たっても、「立憲民主党」という、一昔前を思わせるかのごとき案が一時有力であったと報道された。

 さて、そこでこの立憲主義という言葉だ。これをかざしさえすれば、相手は黙るといわんばかりの勘違いに、誰か一言水を掛けてはくれないかと思っていたところ、一カ月ほど前の読売紙上で、京大教授の大石眞氏がかかる立憲主義論をタイミングよくたしなめておられた(3月30日)。主題は集団的自衛権に関わる政府の憲法解釈変更を「立憲主義に反する」とした一連の主張への反論に関わるものであったが、かかる主張の矛盾点を論理立てて指摘しておられ、やはり大石氏のような学者がいわれると重みが全く違うと思わされた。ここは未読の読者のために、そのポイントを一部紹介してみたい。

 大石氏はまず政府の憲法解釈変更につき、「およそ憲法解釈の変更は許されないという議論はありえない」とする。状況に変化があれば、解釈が変わってくるのは当然のことで、最高裁にも判例変更はある、とされるのだ。その上で氏は以下のようにいう。

 「憲法第9条に絡む解釈変更だからいけないということなら、そこには解釈変更の問題ではなく、別の価値や論点が持ち込まれている。憲法の基本原理にかかわる解釈変更はいけないという人は多いが、防衛力や自衛隊を保持したからといって、平和主義という基本原理を捨てるわけではない。9条をめぐっては国際的な安全保障環境が大きく左右するという事実を無視できない」(傍線は筆者)

 氏はこういいつつ、内閣が憲法や諸種法令への「有権解釈権」をもつことを改めて指摘し、法令の制定や法案の作成に当たり、内閣が自らの行為の「憲法適合性」を自ら判断する権限と義務をもつことは勿論、解釈変更もその中に含まれる、とするのだ。以下はそれに続く指摘である。

 「解釈の変更ばかりを問題にする傾向があるが、元の憲法解釈が唯一で正しいという保証がそもそもあるのかが問題で、この問いかけがないのは実に不思議だ

 解釈変更は許されないというが、ならばそれまでの解釈は正しいのか、ただ踏襲してさえいればよいのか、なぜそれを議論しないのか、というのだ。従来の政府解釈は「集団的自衛権の行使は憲法で認められる必要最小限の自衛という範囲を逸脱するがゆえに違憲」というものであったが、しかし何で憲法で認められる自衛は「必要最小限」なのか、またこの「必要最小限の自衛」の範囲に入る集団的自衛権の行使は、実は場合によってはあり得るのではないか、といった疑問は当然成り立ち、それを議論することは日本の将来にとっても、実に意味あることだからだ。

 むろん、だからといって度々の解釈変更が好ましいというものでもない。氏もいうように、解釈の仕方には一定の作法はあり、混乱を招かない論理一貫性や法的安定性への配慮は必要だからだ。変更の場合には理を尽くした説明も必要だ。とはいえ、氏は以下のようにも指摘するのだ。

 「特に国の防衛や安全保障は一種の保険であり、保険は実際に事が起こってから掛けても遅い。事前にそれなりに手当てすることは、立憲主義を守ろうと思うなら、むしろ必要な作業だろう」

 立憲主義とは憲法を大切にするということである。しかし、それはただ憲法を守ってさえいればいいという立場ではない。憲法を尊重することの中には、改憲や解釈変更も含まれるのだ。こんなことすらわからない者の立憲主義の主張、実に困ったものだ。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成28年5月号〉