立憲主義の破壊 その本当の恐ろしさを考えよ!

 五月十六日は、文化大革命開始から五十年の日だったという。しかし、当の中国では完全な黙殺だった。「一切触れるべからず」が党のお達しだったらしい。

 「歴史を鑑に」というのが、中国政府が日本に対し常々繰り出す常套語だが、自らにとっては歴史は「鑑」どころか、むしろ秘匿の対象なのだろう。文革は「完全な誤り」というのが中国共産党の公式見解だが、この文革の過程で何があったか、毛沢東と共産党の統治のどこに問題があり、何がこの混乱と大殺戮劇を生み出したのか。それは今も絶対に触れてはならぬ最高のタブーであるようだ。

 ところで、ここで問題にしたいのは、この文革、あるいは中国政府の姿勢に対する日本の進歩派論者たちの沈黙である。この文革進行中、朝日が社説でこの文革を評価するという醜態をさらしたことは、今なお消せぬ朝日の歴史的汚点といって過言ではないが、それに限らず、進歩派が今なお総じてこの問題に無関心を決め込んでいる現実は、筆者にとっては不可解という他ない現実であるからだ。

 文革とは権力とイデオロギーが暴走を始め、それを誰もが止めることができなくなってしまった歴史的事件である。「立憲主義」がこれら進歩派論者たちのお気に入りの言葉だが、憲法も法も何の力ももち得ず、弊履のごとく捨て去られてしまったのが、この文革だったのだ。それだけではない。中国政府はいまなおこの事件に蓋をし、何がこの無法状態を招来せしめたのかを検証してみることさえしない。それどころか、温家宝前首相が指摘するごとく、このような歴史的悲劇が再び起きる可能性はなお充分にあるとさえされる。にもかかわらず、彼らはこの立憲主義の大命題に関わる重大事に関心をもとうとさえしない。

 むろん、これは中国の問題であってわが国の問題ではない、との反論は成り立とう。他国政府の暴走にまでは責任をもてない――と。確かにこれはこれで理屈は通ってはいようが、しかし筆者がいいたいのはそういうことではない。この中国の問題はまさに立憲主義の問題であり、この反面教師にしっかり学んでみることが、実は立憲主義の出発点にもなるということだ。

 この日本では、安倍首相は立憲主義を破壊している、と進歩派の論者たちは折に触れていう。しかし、本当に立憲主義が破壊されるとはどういうことなのか、もっとその恐ろしさをこの中国の現実をもって考えてみるべきだと思うのだ。彼らは権力が恐ろしいといって安倍政権の危険性をいう。しかし、そういいつつ、実は権力が本当に暴走した時の真の恐ろしさは見ようとさえしないのだ。

 彼らはいう。政治家や公務員には憲法を守る義務があるが、国民にはそんな義務はない。なぜなら国民は主権者であるからだ、と。しかし、その主権者がもし一定のイデオロギーに絡めとられ、暴走を始めたとしたら、誰がどのように止めるのだろうか。

 というのも、毛沢東という権力者とその革命イデオロギーに唆されて人民が暴走したのが文革だったのだ。人民こそが主人公であり、修正主義に走る「人民の敵」は打倒されねばならない。まさに「造反有理」――「無法無天」「革命無罪」こそが、この革命を貫く論理だとされたのだ。

 フランス革命も同様だった。そこで起こった殺戮劇は、まさに人民主権イデオロギーの随伴物でもあった。「国民は……あらゆるものの源泉である」とシェイエスはいったが、彼には採択された人権宣言など単なる紙切れにすぎなかった。人権宣言のインクも乾かないうちに、人民による「人権の蹂躙」が始まったのだ。

 権力者だけが問題なのではない。国民もまた暴走する。それをどう縛るか。これもまた立憲主義の問題であろう。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成28年6月号〉