プロパガンダに堕す護憲派の主張

 先の通常国会では、憲法改正についての議論は進展が見られなかった。民進党は相変わらず立憲主義なる一つ覚えのような主張を繰り返し、議論の進行を妨げる姿勢をとった。憲法を破棄したり無視せよ、というのならともかく、憲法がもつ役割を重視し、あくまでも憲法に定められた規定に従い、それをより機能できるものにしようとする議論が、どうして立憲主義の否定という話になるのだろうか。

 最近、「真実後」という言葉をよく眼にする。今や政治や言論の世界では「真実」を語ることに価値がおかれなくなり、むしろ自らの主張を通すために堂々と「虚偽」を語ることさえためらわれなくなっている、という指摘だ。それゆえ、言論はプロパガンダと区別のつかないものとなり、「虚偽」を語ってもそれが批判されることもない。

 これは民進党の主張にのみ限られるものではないが、このように護憲を語る論者に最近顕著なのは、まさにこうした傾向なのではないか、というのが最近の筆者の感想でもある。相手の主張をあえてねじ曲げて単純化し、あたかもそれが憲法そのものの否定であるかのごとく誇張し、貶めようとする批判だ。例えば以下のような指摘である。

 「自民党の改憲草案は天皇元首化や国防軍創設など国民主権、平和主義の観点から問題が多く、全国民に憲法尊重義務を課すなど立憲主義に反する内容が盛り込まれている。家族の協力義務を定めるなど復古的で時代にもそぐわない」(東京11・25)

 この草案については、筆者にも批判はあり、これをどう評価するかはむろん自由ではあろう。しかし、この指摘は余りにも一方的で、改憲派が主張しようとしている「真意」になど一切興味はないといわんばかりの指摘ではないか、というのがここで指摘したいことなのだ。

 天皇元首化や国防軍創設をいうことが、どうして「国民主権、平和主義の観点から問題が多く」ということになるのか。また全国民に憲法尊重義務を課すことが、どうして「立憲主義に反する」ことになるのか。そして家族の相互の協力義務を定めることのどこが「復古的で時代にもそぐわない」のか。論理が余りにも飛躍していて一方的で、ただ単純に「そうであるに違いない」と決めつけるだけの悪罵の羅列とどこが違うのか、と指摘したいのである。

 それだけではない。この草案はあくまでもかつて野党時代、党の考え方としてまとめられたものであり、憲法審査会にそのまま提案しようとしているものでもない。にもかかわらず、これを繰り返しダシに使い、あたかも今も自民党がこれに沿った改正を推進しようとしているかのごとく、執拗に改憲派の主張をくさすための材料にしようというのだ。

 それ以外にも、日本会議などの中には憲法の無効を主張する者がいるとし、改憲派の本音が「憲法破棄」や「明治憲法復元」であるかのごとく、まことしやかに仄めかすメディアもある。同会が会としてどこかでそう主張しているのならともかく、まさに改憲派の「真実」などどうでもよく、ただ国民に悪印象を与えることさえできればそれで満足といわんかのごとくだ。

 果たして、こんな言論で何が生まれるというのだろうか。反対なら反対で、相手の主張を真っ当に紹介した上で、それへの反論を堂々と展開すべきではないか。相手に対する作為的な「仮想現実」をでっち上げ、あたかもそれが真実であるかのごとく印象操作した上で、それを危険だの、時代遅れだのと批判するのは、少なくとも責任ある立場にいる者のすることではない。

 先の米大統領選では、メディアの一方的な先入観による偏向報道が批判された。これはまさに他山の石であり、言論とプロパガンダは違うということを自覚すべきだ。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成29年1月号〉